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和食の起源地を探る
作者:唐胜春    发布于:2016-11-08 13:34:18    文字:【】【】【

和食の起源地を探る

揚菜」:こころの里帰りの近道

唐勝春 

 201312月4日、「和食」は、自然を尊重する日本人の心を表わした食文化であり、伝統的な社会慣習として世代を越えて受け継がれていること、また保護の取り組みがあることなどが評価され、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。

 無形文化遺産は、遺跡や自然、建造物などを対象とした「世界遺産」、文書や絵画などを対象とする「世界記憶遺産」とともに、ユネスコの「3大遺産事業」の1つだ。なお、食に関する無形文化遺産では「フランスの美食術」、「地中海料理」、「メキシコの伝統料理」、「トルコのケシケキ(麦がゆ)料理」に続き、「和食」は5件目の登録。また、韓国の「キムジャン: キムチの製造と分配」、トルコの「トルココーヒーの文化と伝統」、グルジアの「クヴェヴリ(ワイン造り)」も新たに登録された。

日本が「和食:日本人の伝統的な食文化」を無形文化遺産に登録申請した際、1、多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重。2、栄養バランスに優れた健康的な食生活。3、自然の美しさや季節の移ろいの表現。4、年中行事との密接な関わり、という四つの特徴を挙げている。

 このように魅力溢れる和食だが、そこには中国伝来のものも多く息づいているのをご存知だろうか。それでは、まずその起源地について探ってみよう。

 

 

一、古代中国では、アワ・ムギの黄河文明とイネの「長江文明」が開花。日本へ伝来した稲作のルーツを揚子江デルタに求める。

 

一言で和食文化といっても、構成要素は多岐にわたる。食材、料理法、調味料、食事スタイル、食器など、その多くのルーツを中国に求めることができる。日本人は、日本の自然条件にあった生食(刺身)の文化を基礎に、中国伝来の食文化もうまく取り入れ、独自に発展させてきたのだ。

例えば、和食と聞いて誰もが思い浮かべる米も、秦の始皇帝の命を受けて蓬莱山を探しに海に出た徐福が、中国から水稲と農耕技術をもたらしたという説がある。あながち単なる伝説ではなく、考古学上の発見によっても、日本の稲作は中国の揚子江デルタ地域を起源とすることがわかっている。

稲作の主な伝播ルートには2つあると言われる。1つめは、揚子江デルタから対馬海流に乗って海を渡った移民が、朝鮮半島南部と北九州にたどり着いて、稲作を開始した。もう1つは、揚子江デルタの少し北方に位置する淮河下流域から中国北部、朝鮮半島北部へと、陸路で朝鮮半島南部まで稲作が伝えられ、そこで定着したのち、朝鮮民族が対馬海峡を渡って北九州に伝えたというものだ(石毛直道日本の食文化史、岩波書店)。

稲作が北九州に伝来した弥生期の水田遺構として有名な佐賀県唐津市の菜畑遺跡では、米以外に栗や稗、そばなどを常食にしていたことがわかっている。米がメインになるのはもう少し時代が降り、飛鳥時代のことだ。また、「料理」という言葉もその頃、中国から伝来してきた(奥村彪生日本料理とは何か 和食文化の源流と展開、農文協出版)。

では、私たちがいま食べているイネの起源はどこなのだろうか。世界規模で見れば、稲作には2つの大きな流れがあり、アフリカのニジェール川周辺を起源とし、現在でもこの地域で耕作されているアフリカ・イネ(オリザ・ダラベリマ種)と、アジアを起源として世界各地に伝播したアジア・イネ(オリザ・サティバ種)の二種類だ。アジア・イネは、インド、アッサム地方、インドネシア半島北部から中国の雲南省にいたる広い地域を起源としている。

世界各地の遺跡から出土するイネは炭化米が中心で、その最古のものは、長江中流域の中国湖南省、洞庭湖の西側に位置する彭頭山遺跡(約9千年前)から出土した土器の胎土に含まれていたイネの籾だ(藤原宏志稲作の起源を探る、岩波新書)。また、杭州湾南岸の河姆渡遺跡(約8千年前)では、稲藁の堆積層が発見され、これが世界最古の稲作遺跡であると多くの研究者が認めている。長江の中下流域における新石器時代の遺跡で、イネの遺物が出土している遺跡はすでに50例を越えており、その数は年々増えている。

長江の河口付近の北側に広がる平野は蘇北平野と呼ばれ、その南側の平野は江南デルタ地域と呼ばれる。新石器時代の稲作遺跡は南側の江南デルタの中央部に散在し、なかでも、太湖の東部は馬家浜遺跡(約6000年―5500前)や崧沢遺跡(約55005000年前)など、考古学の年代測定の指標となる重要な遺跡が分布する地域だ。蘇州市唯亭鎮陵南村にある草鞋山遺跡では、世界最古の水田址が発見された。同区域は、現在も水田が営まれているが、プラント・オパール分析でイネの細胞組織を検査した結果、馬家浜文化期以降6000年のあいだ、この地域では休むことなく水田が営まれてきたことがわかっている。

これまで中国の歴史は、黄河流域を中心とする黄河文明だけで語られてきたが、こうした長江流域の遺跡の発見を受けて見直されつつある。黄河流域は比較的緯度が高く、黄土に覆われた乾燥台地が多いため、稲作には不向きと見られる。黄河文明を唯一の中国古代文明と考えると、日本に伝えられた稲作は一体どのように位置づければよいのか。この疑問への答えとして、近年、中国の研究者を中心に「長江文明論」が提唱されている。つまり古代中国に、アワ・ムギの黄河文明とイネの「長江文明」が併存したとする考え方だ。

チベット高原の北東部に源を発し、上海エリアで海に注ぐ長さ6380キロの長江は、中国最長、世界第三位の河川で、古来より水運の大動脈だ。日本で馴染み深い揚子江という呼称は、長江下流にある揚州付近の通称だ。結論をいうと、日本へ伝来した稲作の起源地は揚子江デルタにあるといえるだろう。

 

 

二、鎮江金山寺に由来する「径山寺味噌」、明治維新に多大な影響を与えた明の王陽明の伝説。

 

次に「栄養バランスに優れた健康的な食生活」について、中国との関わりを見ていこう。

和食のメニューは、「一汁三菜」を基本としている。つまり汁物を1品と料理を3品で構成され、これがバランスのよい食事となる。また、「うま味」を上手に使って味に深みをもたせることから、動物性油脂の摂取量が抑えられ、日本人の長寿、肥満防止に役立っている。

それでは、いつ頃からこのメニューが定番となったのだろうか。鎌倉時代には「一汁一菜」が主流で、汁物とご飯のほかにおかず1品で構成されていたという。これは、鎌倉時代の禅寺で採られていた食事形態が一般に広まったもので、実は、この和食になくてはならない汁物に、中国由来のものがある。 

唐代の仏教文化は、日本社会の基層にまで根を下ろしているが、宋代以降の仏教文化は、主に衣・食・住といった日常生活に影響を与えた。中国の宋代から明代までは、日本では鎌倉後期から室町そして江戸初期までにあたるが、その時代に禅僧が中心となって日本に伝えた食文化は、和食の伝統の中で大きな役割を果たしている。特に、一般的な食べ物として定着したのが、豆腐・味噌・納豆などの大豆を原料とする食物だ。

味噌の歴史は古く、醤の一種として中国から日本へ初めて伝えられたのは、鑑真が奈良時代の天平勝宝五年(753年)に揚州を発ち、戒律・古密教などの仏教を日本に伝えた頃にまで遡ることができる。そして、中国との直接的な関係を示す代表例は、2008年3月20日、和歌山県岩出市の根来寺旧境内から見つかった約430年前の「金山寺味噌」だろう。

金山寺味噌(きんざんじみそ)は、和歌山県、長野県、静岡県、千葉県等で生産されている味噌で、なめ味噌の一種だ。径山寺味噌(きんざんじみそ)ともいう。和歌山県の特産品として和歌山県推薦優良土産品に指定されているほか、千葉県などでも特産品、推奨土産品として扱われる伝統的な味噌だ。

この味噌は、鎌倉時代の僧侶覚心(法灯円明国師)が、中国から持ち帰ったものと言われる。覚心は1254年に帰朝、請われて紀州由良(現在の和歌山県日高郡由良町)の鷲峰山興国寺の開山となった際に、その近くの湯浅(現在の有田郡湯浅町)に「径山寺(きんざんじ)味噌」を伝え、それがはじまりとなったという。また、信州味噌のふるさとである長野では、長野県味噌工業協同組合連合会の長野市敷地内、また同組合南信支所の岡谷市敷地内に味噌神社があり、覚心が中国から味噌を持ち帰り広めた高僧として祭られている。この味噌伝来には異説もあり、空海が唐の潤州金山寺(現在の鎮江市金山寺)から持ち帰ったというものもあるが、いずれにせよ中国伝来のものであることに変わりはない。

この味噌のルーツである中国の「金山寺」は、江天禅寺とも言い、鎮江北西部の山の上にある。東晋時代に創建され、当時の寺名は沢心寺といった。その後、唐代に法海禅師が再建し、皇帝宣宗より金山寺という名を賜った。清代には康熙帝が江南地方を行幸した際に、「江天禅寺」の寺名も贈られている。このように由緒正しい金山寺には、次のような逸話も伝わる。それは、日露戦争の立役者東郷平八郎、最強経営者といわれる稲盛和夫、三菱財閥の創業者岩崎弥太郎、国立銀行の創設者渋沢栄一、早稲田大学の創設者大隈重信などの著名人が崇拝し、明治維新にも多大な影響を与えた陽明学の創始者、明の王陽明にまつわる有名な民間伝承だ。

王陽明が50歳のとき、この地方の郷土料理である淮揚菜に舌鼓を打ちながら遊覧していた折に、金山寺を詣でることになった。そこで、50年前に逝去した寂円法師の即身成仏の姿を見て、また法師が壁に遺した詩を読み驚愕した王陽明は、かつて夢に見た情景とまったく同じであることから、それは実に自分の前世だと悟ったいう。その詩には、「五十年後王陽明、開門猶是閉門人。精霊去後還帰復、始信禅門不壊身(50年後に王陽明というものが、この門を開きまた閉じるだろう。魂は去っても元のままで、禅門によれば身が滅びることはないと信じるだろう)」と書かれていたという。

また一説には、「山寺味噌」の発祥について、天目山北東峰の径山に位置する臨済宗大道場・南宋期の杭州径山万寿寺であるという説もある。

 

 

三、精進料理と懐石料理は、禅の厳しい修業に起源する食習慣。曹洞宗、臨済宗と黄檗宗の中国の開山寺は、揚州付近に位置する。

 

中国から伝来した精進料理は、あっさりした味付けのもので、今日、精進料理として受けつがれているもののほかにも、一般的な和食に溶け込んだものも多い。このように日本人の味覚に入り込んだ精進料理は、禅宗をルーツとしている。

和食の発展には、茶の湯が大きな影響を与えた。茶の湯は禅の思想と深いつながりを持つ。そして「懐石料理」は、厳しい修業中の禅僧が、温めた石を懐に入れて空腹を満たしたことに、その名を由来する。

会席料理の「会席」は、もともと連歌や俳句の席のこと。元禄年間(16881704)ころから、会の途中で酒宴が開かれるようになり、酒宴用に整えられた料理が会席料理の起源だ。転じて、現在では、宴席に供される和食の通称となっている。こうした会席料理を出す料理屋の元祖は、井原西鶴の西鶴置土産にも登場する。明暦三年(1657)ごろ、浅草金龍山門前にあっためし屋で、茶飯に豆腐汁・煮染めなどを添える「奈良茶飯」を供していた。

このように、本来、会席料理と懐石料理は、まったく定義の異なるものであるが、今日では、高級料理店などで提供される旬の素材を生かした高級感あふれる料理は、茶事を伴わないにも関わらず「懐石料理」と呼ばれている(鳥居本幸代和食に恋して、春秋社)。

日本の禅宗は、鎌倉時代に栄西(11411215)が臨済宗を持ち帰り開山したことによって本格的に体系化され、栄西の死後、分派していった。栄西は、日本禅宗の開祖とされるほか医術にも精通、茶による養生方法に着目し、喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。

江戸時代になると黄檗宗も開かれ、新たに当時の中国の精進料理が招来された。黄檗宗大本山の万福寺で作られる精進料理は、それ以前に伝えられ日本化した臨済宗や曹洞宗の精進料理とは異なり、煎茶を飲みながら大勢で食卓を囲み、中国式に調理、調味した料理を大皿に盛り、各人がおのれの箸で取りわけ、おしゃべりをしながら食べるという、現在の食卓と同じ風景だった。

日本の曹洞宗は、道元(12001253)に始まる。道元は、1223年に南宋に渡り、曹洞宗の印可を受け、4年ほど滞在したのち京都に戻った。その後、越前国(現在の福井県)に開いた永平寺の伽藍は、明州天童寺(現在の寧波)に傲って建造された。2009年に公開された日本映画「禅」では、開山から現在まで永平寺で食べつがれている朝食など、当時の食事風景を垣間見ることができる。

臨済宗における日本最初の道場は、鎌倉幕府の第五代執権北条時頼によって建立された建長寺である。度重なる火災などで創建当時の伽藍は失われたが、伽藍が一直線に並ぶその構図などは、創建当時の面影を残すといわれ、これは杭州にある径山万寿寺、霊隠寺と密接なつながりを持つといわれる。

また、臨済宗東福寺派に属する福岡博多の承天寺は、食物の日本伝来に大きく貢献し、饅頭、饂飩、蕎麦、羊羹などの発祥地と言われる。史書によれば、寺の創建は、日宋貿易で巨万の富を蓄えた南宋の商人謝国明が援助をし、宋から戻った円爾(聖一国師)を迎え開祖とした。円爾は、年末になると貧しい人達に温かいそば粉餅を振舞ったと伝えられる(唐勝春中国ゆかりの地、中文導報出版社)。

人だけではなく、企業も長寿を誇る日本では、すでに1000年以上も続く老舗企業が16社、500年以上は67社、300年以上は1960社あり、そのうち仏教の伝来によって創業かつ発展し、今でもそれを本業としている企業もある。また、和菓子を例にすると、室町時代に創業し、江戸時代には皇室御用達となった「虎屋」(中世・1526年創業、17代目、現在東京都港区)では、羊羹が有名だが、冬季限定で販売される酒饅頭は、上記の福岡承天寺と同じように、円爾が作り方を伝授したと言われる。同社では当時の「御所饅頭」の看板を今でも大切に保存しているという(横澤利昌老舗企業の研究改定新版、生産性出版)。

黄檗宗大本山である京都の万福寺は、明の高僧・隠元隆琦が故郷の福建省黄檗山萬福寺(現在の福清市漁渓鎮)を模して1661年に創建した。また、高僧隠元は、江戸時代に中国で主流だった禅の教えを日本にもたらし、当時の禅宗に大きな影響を与えただけでなく、いまでも食事に並ぶマメを持ち込んだ人物だ。日本人に馴染み深いインゲンマメは、隠元が持ち込んだマメなので、そう呼ばれるようになった。隠元には江戸幕府の手厚い保護もあり、「日中文化交流史上の第二次ブーム」が巻き起こした。

このように日本人の生活に一体化している禅宗のうち、曹洞宗、臨済宗、黄檗宗は代表的な三宗派だが、その中国の開山寺はいずれも寧波、杭州と福清という長江のほとりにある揚州付近に位置する。

 

 

四、日本人の心に懐かしく響く揚州、「淮揚菜」は故郷に繋がる味。

 

上海から長江を200キロぐらい遡ると、鎮江に至る。鎮江から長江の対岸を見ると、古都揚州である。中国は古くから中国全土を「九州」と呼び、九つの地域に分けていた。そのうちの一州であった揚州は、現在の行政区の揚州より広く、淮河以南の中国東南部に相当する広域な地方である。「揚州」という地名は、春秋時代には使われていたようで、正式的な命名は、中国を統一した隋の文帝(日本では聖徳太子の時代、紀元589年)による。

2000年以上の歴史を持ち、世界遺産である北京と杭州を繋ぐ大運河にも面する商工業都市の揚州は、遣唐使にもゆかりのある土地で、遣唐使はこの揚州を経由して長安に入った。空海も804年に訪れている。また、唐招提寺を建立した鑑真和上は揚州の出身で、鑑真和上とゆかりの深い大明寺、またその足跡をまとめた鑑真記念館などもあり、日本人が多く訪れる。


 

図:遣唐使の航路に見る和食の起源地www.bell.jp/pancho/より)

 

揚州を起点に、中国の淮河から北は、小麦や粟などを常食にしていた地帯である。小麦は製粉して、饅頭や包子、水餃子や麺にして食べている。中国で京菜(北京料理)、川菜(四川料理)、粤菜(広東料理)と並ぶ4大名菜の1つである揚州料理は、揚州地方の温暖な気候に育まれた農作物や、豊富な水と魚に恵まれたゆたかな味わいが特徴で、中国の宮廷料理にも大きな影響を与えたと言われる。なかでも、清時代に確立した「満漢全席」は、満州族と漢族の食事を取り入れたものだが、揚州料理の要素も多くみられる。

揚州料理の特徴は、素材本来の味を引き出した優しい味わいだ。野菜や肉のうまみが溶け出したスープや煮込み料理、魚介類のうち特に海老を使っており、和食に通じる味だ。また、新鮮な食材とその持ち味の尊重、自然の美しさや季節の移ろいの表現などという和食の特徴にも、揚州料理との深い繋がりが感じられる。

揚州の代表的な料理といえば、揚州チャーハンがよく知られる。日本の中華料理店でも味わうことができる代表的なチャーハンだが、ここ揚州が発祥の地だ。ほかにも「獅子頭」と呼ばれる肉団子や細い干し豆腐、水晶肉などといった、おいしい料理が沢山ある。交通の要衝であったため質の良い塩が揚州料理を育んだといわれ、さらに刀鍛冶産業も多く刀を使うのに長けた料理師も多かったようだ。

精進料理が動物性たんぱく質を使わない点も、揚州料理との共通点だ。「揚州料理」は、中国では古くから「淮揚菜(わいようさい)」と呼ばれ、「淮揚」は揚州を指す。現在になると、「淮」は淮安を指し、「揚」は揚州を指し、最近では「淮揚菜」と言うと、揚州を中心とし、淮安と鎮江エリアで伝わっている料理を指す。

史書で「素食」が最初に語られるのは、春秋時代に呂不が編纂した「呂氏春秋」にある「肥肉厚酒、務以自強、命之曰爛腸之食(脂っこい肉や大量の酒は、身体のバランスを崩し、腸の働きを阻害する)」という記載だ。漢代には、精進食の雛形が生まれ、豆腐もこの時代に発明された。豆腐の創始者は「淮南子」を編纂した淮南王・劉安で、いまでも「天下万民を養う」ため、毎年915日の誕生日には豆腐業者が劉安を祭る。

また、精進料理が大きく発展し多様化したのは唐代で、今日の姿に近くなったのは宋代、各流派の発展と理論化がなされ最盛期を迎えたのは清代になってからだ。清代には、宮廷素食、寺院素食と民間素食という三流派があり、いまでも宮素、仏素と民素と言われる。「淮揚菜」としての「鑑真素宴」は、揚州十大名宴の一つで、その最大の特徴は、「野菜だけの料理であるが、肉料理の名、形、味を揃える」ことだ。

長江を遡り、遣唐使の足跡を巡って、「淮揚菜」の美味しさを味わう。その旅はこころの里帰りとも言えるもので、日本を見直す最高のコースだろう。

 

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